僕は未だ「追憶」を手にしたことがない。「記憶」は脱色されれば「追憶」となるが、ぼくのそれは未だその経過を辿ってはいないのだ。
「記憶」は突然こちらへ襲来する。幸せなもの、悲しいものなど、「記憶」の種類はさまざまだ。僕は、後者の数の方が断然多い。たとえば、いつしか友人に送ってしまったメールが今でも自分を苦しめたりする。一寸の分別があれば回避できたであろうに、何故ああした言葉をずかずか並べてしまったであろうか、と。また、悲しい体験の方を多く思い出すのは、決して幸福な体験が皆無であったからではない。幸福体験においては、刹那的なものが広く支配しているからだ。大概の幸せは一瞬しか存在し得ないために、「記憶」となることが困難である。「記憶」として残りにくいので、人々に思い出される機会も少ない。
経験とは抹消のきかぬものだ。取り返しのつくことなどない。その経験を想起して、僕らは良くも悪くも感情的になっているのだ。しかし、それは未だ「記憶」の段階に他ならない。一度追憶となってしまえば、そのような感情に襲われる必要もない。「記憶」が襲来するものだとするなら、「追憶」はただ僕らの前を通り過ぎていくものである。彼らは何の手土産ももってこない。だから、僕らは彼らの存在に笑ったり怒ったり悲しんだりしなくていい。「追憶」は僕らに何の迷惑もかけない。ただ、優しく微笑みかけてくるだけである。
世の中の「記憶」がすべて「追憶」と化すなら、世界はどれだけ平和になるだろうか。そして、僕は一体いかに「幸せ」になれるのだろうか。今有るあらゆる「記憶」が色あせて「追憶」となるなんて、何と素晴らしいことではないか。
「追憶」と云う名の「他人」に会えるのはきっと未だ先のことだろうが、その時が待ち遠しくてならない今日この頃である。