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2025/07/08 01:49 |
3月26日

僕は未だ「追憶」を手にしたことがない。「記憶」は脱色されれば「追憶」となるが、ぼくのそれは未だその経過を辿ってはいないのだ。


「記憶」は突然こちらへ襲来する。幸せなもの、悲しいものなど、「記憶」の種類はさまざまだ。僕は、後者の数の方が断然多い。たとえば、いつしか友人に送ってしまったメールが今でも自分を苦しめたりする。一寸の分別があれば回避できたであろうに、何故ああした言葉をずかずか並べてしまったであろうか、と。また、悲しい体験の方を多く思い出すのは、決して幸福な体験が皆無であったからではない。幸福体験においては、刹那的なものが広く支配しているからだ。大概の幸せは一瞬しか存在し得ないために、「記憶」となることが困難である。「記憶」として残りにくいので、人々に思い出される機会も少ない。


経験とは抹消のきかぬものだ。取り返しのつくことなどない。その経験を想起して、僕らは良くも悪くも感情的になっているのだ。しかし、それは未だ「記憶」の段階に他ならない。一度追憶となってしまえば、そのような感情に襲われる必要もない。「記憶」が襲来するものだとするなら、「追憶」はただ僕らの前を通り過ぎていくものである。彼らは何の手土産ももってこない。だから、僕らは彼らの存在に笑ったり怒ったり悲しんだりしなくていい。「追憶」は僕らに何の迷惑もかけない。ただ、優しく微笑みかけてくるだけである。


世の中の「記憶」がすべて「追憶」と化すなら、世界はどれだけ平和になるだろうか。そして、僕は一体いかに「幸せ」になれるのだろうか。今有るあらゆる「記憶」が色あせて「追憶」となるなんて、何と素晴らしいことではないか。


 

「追憶」と云う名の「他人」に会えるのはきっと未だ先のことだろうが、その時が待ち遠しくてならない今日この頃である。

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2007/05/26 06:27 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
高校時代

学校がここまで厭わしいものとは思わなかった。

勉学が他の学校より苛酷なことは知っていた。私はむしろ、その厳しさを欲してここに入学した位だ。大学受験で失敗するつもりは更々なかったし、その成功に至るまでは一年からの努力がモノを言う気がしていた。もとより努力が「容易い」ような学校が良かったのである。

それゆえ、学校を厭わしくするのは厳しい御勉強ではないのだろう。

私を苦しめるのは、人かも知れない。

それは、ある特定の人間を指してはいない。

学校を通して出会ういかなる人間が鬱陶しいのである。

だが、かれらは暴力を振るうわけではない。かれらは世間が認める常識人であるので、口ならまだしも怒りを力に任せる真似はしない。だからといって、かれらを無視の好きな集団と捉えるのも間違っている。私は無視何かされた日は憶えていない。

では、かれらは私に何をしていると云うのか。

何もしていないのである。

どんなに記憶を掘り返しても、自分とかれらの間に何かが起きているとは思えない。

そうした記憶が皆無なため、厭な記憶をでっちあげるにも難解だ。

かれらとは何も起きていない。

ただ普通に触れ合う以上でも以下でもないのである。

なのに、どこかが今まで自分の出会った人間とは異なる。

これ程までに私を苦しめる人間は中学までいた覚えがない。

然し一体、何を以て私は苦しめられているのだろう。

何故こんなにも帰りのバスの中が心地よいのだろう。



あと一年半も持ったら私は僧になれるかも知れない。


2007/05/23 00:10 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

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