環境は悲劇だった。
わたしは以前、高校で出会う人がそれまで出会ってきた人と性質を異にしていることについて書いた。彼らの会話は可笑しい。自分の言いたいことを言って、何も思いつかなくなれば口を閉ざす。その口を閉ざす瞬間、顔には一寸の気まずさを認めることが出来る。
そこまでして人と話すのには無論訳がある。彼らは、自分を守るために会話をする。会話をして定量の関係を保つことで、自分の立場の様なものを確保するのだ。会話をしなければ自分の立場が危ぶまれ、その空間内での自分の居場所を見失うことになる。そうした状況を恐れるが故に彼らは、実際は求めてもないのに人と会話をし、したくもないのに相手に質問をする。悲しいことに、そんな会話の形式性を、私は知ってしまった。
自分が可愛いから、人を利用し、自分を守る。
さらに私は、それ以上のことまで知ってしまった。
決して信じたくなかった。
その形式性は、高校だけに留まるものでなかった。
中学の頃の知人やその他の知人に会う度に、私はそれを認めてしまう。殆どが、相手を心から大事に思っているなどあり得ない。自分が大事だから人と接している。結局は自分の居心地のよさを求めたいだけだ。
どうやら私も、道具として利用されているに過ぎなかったようだ。
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