チャイムが鳴った。
「受験がんばってください」
そう言って、彼の最後の授業はおわった。
思いかえせば、彼は私が1年の頃の副担任だった。
まだ入学したての頃で、なんの「法」も内面化されていなかったのだが、私は最初になぜか担任と副担任の差が気になった。担任はその立場にもかかわらず年をとっておらず、若さ特有の清涼感があった。それに対し副担任は、頭に白髪をまじらせ、顔には無数のしわを刻み込んでいた。
主導権を握っているのは常に担任のほうだった。HRでも、話を進める主体は担任だった。話がおわると決まって、「先生、何かありますか」と、教室の後ろの隅にいる副担任へ主導権をわたした。しかしいつも彼は、「特にありません」と言ってすぐに権限を担任へ返すのだった。その言い方はすこし滑稽で、生徒の笑いを誘った。
彼はだから、普段は口数の少ない人種だった。しかし、数学の授業は唯一彼を多弁にさせた。数学の授業中では彼しか教師がいない。それ故主導権は彼の手元を離れることはなかったのだ。彼の特徴的な物言いで占められていた授業は、やはり私たちには面白かった。また、彼の数学の授業はとても分かりやすかった。公式の原理や、教科書の分かりにくい説明にあたればその都度対峙していたらしい。それに原因していたのか、彼の数学の語りはまるで哲学者のそれを聞く気分だった。
彼は、私に「森」の存在を忘れさせてくれる人間にちがいなかった。いや、いまでも確実にそうである。彼はうっそうとしたその「森」の性質とは無関係なのだ。その状況は、彼と会話をする場合にも消えない。それは幸いにも私が、他のあらゆる人間がもっている性質を彼に見出すことが無いということに由来しているのだろう。常人特有の人間関係における利害が、彼には無いように感じられたのだ。醜い人間関係から乖離された、彼の存在。
彼の存在は、私がこれ以後いくどか経験する幸運の内のひとつなのだろう。そしてそのような幸運がある都度に、私は生かされているのかもしれない。