忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2024/05/02 12:10 |
高校時代

5時半起床。

7時出発。

17時帰宅。

 

5時半起床。

7時出発

17時帰宅。

 

5時半起床。

 

私は、人間は得意でない。心にも無いことを言う彼らは、惨めだし面倒なのである。思ってもないのに、楽しい。思ってもないのに、面白い。思ってもないのに、頑張れ。思ってもないのに、大事だと思う。思ってもないのに、お前らに会えて嬉しい。思ってもないのに、また相談してくれよ。思ってもないのに、良かったじゃんか。思ってもないのに、お前どこ受けるの。思ってもないのに、今朝何時起きた。思ってもないのに、試験どうだった。思ってもないのに、一日何時間勉強している。思ってもないのに、明日また教えて。思ってもないのに、一緒に学校残ろう。思ってもないのに、学校なんて大変ね。思ってもないのに、あんたが辛そうだとあたしが辛い。

思ってもないのに、おはよう。思ってもないのに、今日は。思ってもないのに、じゃあね。
思ってもないのに、有り難う。

 

 

 

 

ある日の学校の帰り、私は最寄り駅ビル内の店員と話した。今これ買っていかれるお客さんは多いんです。あそうでしたか。たしかにもう少し癖があったほうが個性的かもしれないですね。いやあお客さんの私服が見てみたいです。云々。

 

あ、お客さんは将来なんかのデザインがやりたいんですか。いや、自分もそういうのがずっと興味ありまして。ああ、確かに大学に行くとなるとなかなかそういうの出来ませんよね。なるほど、お客さんはあわよくば、専門学校に行きたいんですか。それで、先生は反対していらっしゃるんですね。学校側との意見が食い違っているわけですか。云々。

 

まわりの反対とかあるかもしれないけど、自分の行きたいとこ行った方がいいと思います。自分のやりたいことやったほうが後で後悔しませんよ、きっと。はい、ほんとにそう思います。

思ってもないのに、ほんとにそう思います。

 

 

 

すべて解ってしまう。そこに人間の憂うべき真実を、私は見抜ける。

暮らせる場所など無い。一生癒えぬ感傷である。

 

 

きさま、同情を誘うな。誰も人間を厭えなどとは命令していない。手前で選んだ路にすぎぬ。もっと感情を棄却してしまえ。自分だけ偽善者から一抜けできたと思うなら、とんだ思い違い。御前も誰も同じ真実を孕んでしまった、憎き動物。

 

 

 

 

もう何もかもに嘘が見つけられる。

疲れてしまった。誰かわたしを救ってくれないか。

勿論、思ってもいない。

PR

2008/04/21 21:59 | Comments(2) | TrackBack() | 未選択
大学時代

昨日は2人の友人と遊んだ。

2時駅に集合して、ショッピングモールのような場所をうろうろした。予定は特に決めていなかった。夕食の食べ放題まで、ただ時間をつぶすだけであった。やがて5時になって店に入り、6時半には店を出た。もう少し居座りたかったが、食べ放題には90分の制限時間がもうけられていたのだ。私は定時間まてばすぐに腹が減る質であったので、いくらか不平を言いたかった。

唯一の予定が遂げられてしまい、私たちには空虚な時間が残されたのだった。食事前に店は大体まわったため、もはや雑談くらいしかすることが無かった。食事のときに出すはずだった話題を出すなどして話を盛り上げ、8時頃にはもう別れた。

 

 

彼らとは、3月や8月など、まとまった休みが取れる時期に決まって遊ぶ。毎度おなじような遊びである。そして、彼らと私自身も、毎度おなじような人間で一才の変化も見受けられない。

 

 

 

そのように悟るや否や、わたしは恐怖の淵へ追いやられてしまったのだ。恐怖と言って何ら問題でない。現に私は、果てなき寒気を心に宿しているようなのである。

 

 

 

昨日の遊びは、私にサイクルの存在を教えてしまった。自分の仕事にはげんで、数か月。休みに入れば、友人と遊ぶ。そんなサイクルが、何食わぬ顔で連続する。

その事態が、私にはとてつもなく恐ろしい。じぶんの将来がすべて捉えきれてしまった気がするのである。簡単に見据えられてしまうほどの、取るに足りぬ歳月。

 

 

 

 

 

 

 

私は人生を設計してしまったのだなあ。

頬をつたって、涙がするする。抑えきれず、うめき声。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘘。わたしはそんなに感傷的ではない。

 

 

 

私には何もたのしくない。3月21日。


2008/03/22 00:28 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
高校時代

 チャイムが鳴った。

 「受験がんばってください」

 そう言って、彼の最後の授業はおわった。

 

 

 

 

思いかえせば、彼は私が1年の頃の副担任だった。

まだ入学したての頃で、なんの「法」も内面化されていなかったのだが、私は最初になぜか担任と副担任の差が気になった。担任はその立場にもかかわらず年をとっておらず、若さ特有の清涼感があった。それに対し副担任は、頭に白髪をまじらせ、顔には無数のしわを刻み込んでいた。

主導権を握っているのは常に担任のほうだった。HRでも、話を進める主体は担任だった。話がおわると決まって、「先生、何かありますか」と、教室の後ろの隅にいる副担任へ主導権をわたした。しかしいつも彼は、「特にありません」と言ってすぐに権限を担任へ返すのだった。その言い方はすこし滑稽で、生徒の笑いを誘った。

彼はだから、普段は口数の少ない人種だった。しかし、数学の授業は唯一彼を多弁にさせた。数学の授業中では彼しか教師がいない。それ故主導権は彼の手元を離れることはなかったのだ。彼の特徴的な物言いで占められていた授業は、やはり私たちには面白かった。また、彼の数学の授業はとても分かりやすかった。公式の原理や、教科書の分かりにくい説明にあたればその都度対峙していたらしい。それに原因していたのか、彼の数学の語りはまるで哲学者のそれを聞く気分だった。

 







彼は、私に「森」の存在を忘れさせてくれる人間にちがいなかった。いや、いまでも確実にそうである。彼はうっそうとしたその「森」の性質とは無関係なのだ。その状況は、彼と会話をする場合にも消えない。それは幸いにも私が、他のあらゆる人間がもっている性質を彼に見出すことが無いということに由来しているのだろう。常人特有の人間関係における利害が、彼には無いように感じられたのだ。醜い人間関係から乖離された、彼の存在。

 

 

彼の存在は、私がこれ以後いくどか経験する幸運の内のひとつなのだろう。そしてそのような幸運がある都度に、私は生かされているのかもしれない。


2008/01/27 11:49 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
大学時代

最近は急に寒くなってきましたね。あまりの季節の早さに身動きできず、それで俺はどうも服を用意できなかったみたいで。

そうしてこの頃は服が欲しい訳な俺でして、ものとしては「高そうな」ものを希望するわけです。

友人との会話で気づいたんですが、どうもお洒落さには「高そう」が不可欠らしい。そういう人種はみんな汚らしいような服装ではないのです。

さて、「高そう」で安いお洋服でも中目黒で仕入れようかしら。学生はお金がないので安さに落ち着かざるをえませんからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苦悩の吐き捨て場を見出したにもかかわらず、わたしは上手くこの場を使えていない気がしてならない。いや、そもそも始めは上手く使う必要が無かったんではなかろうか。ここを始めた当初は悩みなんてなくて、昔の自分を顧みることが出来ればいいという程度の気持ちだった。昔の自分の醜態をさらしておけばそれで満足し、今の自分を見せることに意義を覚えなかった。今の自分にいくらか問題が生じても、以前に使った解法で、数あるうちの1つの答えを導けたものだった。

 

しかし、今と呼べるものが姿を変えていってその先に、以前の解法じゃ無理になった。決まりきった約束事のように片づけられず、たまってはいけないモノがたまっていったのだ。やがて解くべき問題量は莫大なものとなってしまい、遠くから見た分には「からっぽ」と大して変わらなかったのだろう。「からっぽ」のように見えてしまって問題がどのような様相をしているか、さらには本当に存在しているかさえも掴めず、ひどく精神が安定しなくなった。心臓に不快感を覚えもした。

 

問題が増えると、厭なことに自分は首がまわらなくなる。いや、故意にまわらなくして、「悲劇のヒーロー」を演じたがっているのかもしれない。それで自分をかわいいと思って、甘えさせているのではないか。大きく水準を下回った人間。ハードルを下げて人生を歩もうとする愚か者。

 

さっさと感傷から抜け出して、理屈をもって片づけてやればいいのだ。誰に見せるわけでもないのに、頭の悪さを晒す筋合いはない。


2007/12/13 11:29 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
高校時代

私はいま森へ来ている。

その森はなかなか広い。どれほど歩いても同じような景色にしかあたらない。木の位置関係が、先ほどと変わってない気がするのは実際にそうであるからなのだろうか。

私は今ひとりである。今と言ったのは、以前まで彷徨を共にしてくれる者がいたからである。始めは多くの連れがいた。しかし、この森の中へ入ると急に彼らの多くは姿を消した。消えずに残った者も勿論いたが、そういう者も森の中を行く途中でいなくなった。彼らは決して私とはぐれた訳ではなかった。私の目の前で彼らは、森へと溶けて同化してしまったのだ。

それでも私は稀に生身の人間と出会う。そういう類の人間は、私を気遣ってアドバイスをする。気の利いたやつは森の道を教えようとする。しかし私はどうも、そんな者たちを信じることが出来ない。何故なら、彼らとはたまたま会ってしまったのに過ぎないからだ。偶然の再会で彼らは、気まずさを避けるためだけに言葉を発しているのである。その証拠に、彼らは助言の際に私を知ろうとしない。私の性質の表面を適当にさわって、つまらないことを言うだけだ。ひどい時には、さわった性質でさえも参考にしない。私の話を聞く体裁をとって、話の途中でとんでもなく能天気なアドバイスをする。がんばればみちはひらけるよ、などと言って誰を慰められると思っているのか。ひとはなやみくるしみせいちょうするものです、などには殺意を覚える位である。そんな勝手に掲げた人の定義だか何だかに押し込もうとする者に対して、私はあやめたいという感情しか芽生えない。
彼らは面倒なことは嫌いなのだ。だから再会は無かったら無かったでよいと本気で思っている。私がそんなふうに捉えた瞬間、彼らもまた森へと同化してしまった。

そんな具合にして、私は多くの人間を失った。仲が良かった友人も、私を20年近く育ててきた父や母も、みんな森に溶けてしまったのだ。

その深遠な森から、私は抜け出せない。

 




 

森の中で私の出来ることは、あまり多くないのだろう。そして、その限られた選択肢に幸福なそれは、決して含まれていない。


2007/11/04 18:36 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]